トイレの花子さん
出現: 放課後の学校の女子トイレ
被害: 失踪
■ 怪談話
あれは、小学生のころの話だ。
放課後、教室にはもうほとんど人が残っていなかった。日直の仕事で黒板を消し、窓を閉めていた私は、校舎の奥から聞こえてくる妙な音に気づいた。水が、ぽたぽたと落ちるような音だった。最初は気にも留めなかったが、静まり返った校舎ではその音だけが妙に大きく響いていた。
そのとき、同じクラスの友人が言っていた話を思い出した。
「三階の女子トイレの三番目の個室をノックして、『花子さん、いますか』って聞くと返事があるんだって」
ありがちな話だと思って、笑い飛ばした記憶がある。でも、そのときはなぜか、妙に気になってしまった。音の出どころが、ちょうどそのあたりだったからかもしれない。
私は迷いながらも、足を運んでいた。三階の廊下は薄暗く、窓から差し込む夕焼けの光が床に長い影を落としていた。誰もいないはずなのに、どこか気配のようなものがまとわりついてくる。
女子トイレの前に立つと、水音ははっきりと聞こえた。中からだ。誰かがまだ残っているのだろうか。そう思ってドアを開けると、冷たい空気が流れ出てきた。
中は静かだった。水音も止んでいる。
個室は三つ。すべて閉まっているように見えたが、よく見ると三番目の扉だけ、わずかに隙間があった。鍵はかかっているのか、いないのか分からない程度の開き具合だった。
そのとき、背後で何かがきしむ音がした。振り返ったが、誰もいない。ただの気のせいだと自分に言い聞かせ、私はなぜか、その三番目の扉の前に立っていた。
軽くノックする。
コン、コン。
返事はない。
やめればいいのに、私はもう一度ノックした。
コン、コン。
そして、口にしてしまった。
「……花子さん、いますか」
言った瞬間、後悔した。こんなことをするつもりはなかったはずなのに。
しばらく沈黙が続いた。
やっぱり誰もいないのだと思い、離れようとした、そのときだった。
「……いるよ」
かすれた声が、確かに内側から聞こえた。
背筋が凍りついた。子どもの声のようでもあり、年寄りの声のようでもある、不思議な響きだった。
逃げようとしたが、足が動かない。視線は自然と扉の隙間に吸い寄せられていく。暗くて中はよく見えない。だが、確かに何かがいる気配がした。
もう一度、声がした。
「入ってきて」
その瞬間、扉が、ゆっくりと内側から開き始めた。
ぎい、と鈍い音を立てながら。
中は真っ暗だった。外の光がほとんど届かない。なのに、奥のほうに、小さな赤いものが見えた。リボンのようにも見えるし、目のようにも見える。
私は思わず一歩後ずさった。
すると、今度は中から手が伸びてきた。細くて白い、子どもの手のようなものが、扉の隙間からゆっくりとこちらへ向かってくる。
「ねえ」
声はすぐ近くで聞こえた気がした。
「どうして来たの」
その問いに、答えることができなかった。ただ、喉が詰まったように声が出ない。
手が、さらに伸びてくる。
あと少しで触れられる、という距離になったとき、突然、背後から誰かに強く腕を引かれた。
気づくと、廊下に倒れていた。目の前には担任の教師が立っていて、険しい顔で私を見下ろしていた。
「こんな時間に何をしている」
そう言われて、ようやく我に返った。
トイレの扉は閉まっていた。三番目の個室も、他と同じように静かに閉じられている。
あの手も、声も、何もなかったかのように。
ただ、床には水が広がっていた。どこから漏れたのか分からないが、私の靴の先が濡れていた。
その日以来、あのトイレには近づいていない。
後から聞いた話では、あの三番目の個室に入ったまま戻ってこなかった生徒がいるという。噂なのか、本当なのかは分からない。ただ一つ言えるのは、あの場所には、確かに何かがいるということだ。
そして、あの声。
あれは、誰かを待っている声だった。
■ 概要
トイレの花子さんとは、放課後の学校の女子トイレに現れ、呼びかけに応じて姿を現すことで知られる怪異である。特定の個室に現れ、応答した者を内部へ誘い込むとされる。応じた場合、失踪するなどの被害が報告されている。
■ カタリヤの記録
- 登場時期
- 昭和後期
- 登場地域
- 日本全国
- 対処法
- 条件付きで回避可能
- 補足
- 扉の向こうの声に答えなかった者のみ、生還した例が確認されている。