くねくね
出現: 夕方の田んぼの中央
被害: 発狂
■ 怪談話
夏休みの終わり、私は兄と二人で祖父の家へ帰省した。周囲を見渡せば、どこまでも続く田んぼばかりで、建物も人の気配もまばらな土地だった。子どもの頃から何度も来ている場所のはずなのに、その日は妙に空気が重く、胸の奥に引っかかるような違和感があった。
荷物を置いて一息ついたあと、兄が「少し歩こう」と言い出した。日が傾きかけ、風も涼しくなってきていた。私は特に理由もなく頷き、二人であぜ道へと出た。辺りには蝉の鳴き声が響き、遠くでカエルの声が重なる。そんな何でもない田舎の夕暮れだった。
しばらく歩いていると、兄が急に立ち止まった。
「なあ、あれ見えるか?」
指さされた先、田んぼの中央に、何かが立っていた。最初は遠くてよくわからなかったが、目を凝らすと、それは白い何かだった。人のような形にも見えるが、輪郭が曖昧で、どこか現実感がない。そして、それはずっと、くねくねと揺れていた。
風はほとんど吹いていない。それなのに、その白いものだけが、規則もなく揺れ続けている。まるで意思を持って動いているかのように、不気味な動きだった。
「人か……?」
兄が呟く。
私は一瞬、それを見ようとした。しかし、視線を合わせかけた途端、言いようのない不安が込み上げてきた。見てはいけない、と強く思った。理由はわからない。ただ、本能がそう告げていた。
「やめようよ」
私は兄の腕を引いた。
「なんか変だよ、あれ」
けれど兄は、聞こえていないかのようにじっとそれを見続けていた。目を細め、さらにはっきりと見ようとしている。
そのとき、背後から怒鳴り声が飛んできた。
「何を見とる!!」
振り返ると、祖父が立っていた。顔を歪め、息を荒くし、今まで見たこともないような形相だった。
「見るな!あれを見るな!!」
祖父は駆け寄ってきて、兄の肩を強く掴んだ。
「目を逸らせ!今すぐだ!」
私は兄の顔を見た。兄の目は、まだあの白いものに向けられている。
「兄ちゃん、こっち見て!」
必死に声をかけると、兄の視線がゆっくりとこちらへ移った。その瞬間、兄の表情に奇妙な変化が生じた。何かを理解してしまったような、あるいは何かが壊れてしまったような、そんな空虚な顔だった。
祖父はすぐに兄の腕を引き、半ば引きずるようにして家へ連れ戻した。私も後を追いながら、決して後ろを振り返らないように必死だった。もしあれをもう一度見てしまったら、取り返しがつかないような気がしたからだ。
家に戻ると、祖父はすぐに雨戸を閉め、部屋を暗くした。兄を座敷に座らせると、低い声で問いかけた。
「何を見た」
兄は答えない。ただ虚ろな目で宙を見つめている。
「どこまで見た」
祖父が繰り返す。
しばらくの沈黙のあと、兄はゆっくりと口を開いた。
「……くねくねしてた」
それだけだった。
祖父は何も言わず立ち上がると、奥の部屋から数珠のようなものを持ってきた。何かの言葉を小さく唱えながら、兄の頭に手を当てる。その様子は、どこか必死で、しかし同時に、どうしようもないことを悟っているようにも見えた。
やがて兄が、小さく笑った。
「面白いな……あれ」
その声は、今までの兄のものとは思えないほど、軽く、歪んでいた。
祖父の手が止まる。
「見たんだな……」
その声は、諦めの色を帯びていた。
その日を境に、兄は変わってしまった。会話は成立せず、意味の通らないことを呟く。何もない場所を見つめては、誰かがいると言い出す。夜になると外へ出ようとし、「あれを見に行く」と繰り返すようになった。
数日後、兄は病院へ連れて行かれた。原因はわからないとされたが、私にはわかっている。
あの田んぼの中央で、くねくねと揺れていた、あれ。
祖父があれほどまでに取り乱した理由も、今なら理解できる。
私はあのとき、あれを見続けなかった。兄の方を見ていたからだ。
もしも、ほんの少しでも長く視線を向けていたら――
今こうして、正気でいられたかどうかは、わからない。
■ 概要
くねくねとは、夕方の田んぼに現れ、奇妙に揺れ続けることで知られる怪異である。遠くに白く人型のように見えるそれは、視認し続けることで精神に異常をきたすとされる。特に強く注視した場合、不可逆的な発狂に至る危険があると語られている。
■ カタリヤの記録
- 登場時期
- 平成初期
- 登場地域
- 日本全国
- 対処法
- 特定の行動で回避可能
- 補足
- 一定時間以上注視してしまった場合、正気を失い、二度と元には戻らなくなるとされる。