口裂け女
出現: 夕方から夜の帰り道
被害: 失踪/死亡
■ 怪談話
あれは、部活の帰りだった。
日が落ちきる前の、あの妙に赤い空の時間帯。街灯はまだ完全には点いていなくて、住宅街の道は薄暗く、影だけがやけに長く伸びていた。
友人とは途中で別れ、ひとりで家までの道を歩いていた。特に怖いと思ったことはなかったはずなのに、その日は妙に足取りが重かった。背後に誰かいるような気がして、何度か振り返ったが、誰もいない。ただ、風もないのに電線がかすかに鳴る音だけが耳に残っていた。
角を曲がったときだった。
前方に、人影が立っているのが見えた。
女だった。背は高くも低くもなく、細身で、黒いコートのようなものを着ている。顔の下半分をマスクで覆っていて、じっとこちらを見ていた。
こんな時間に、こんな場所で立ち止まっている人間は珍しい。避けようと思ったが、道は狭く、どうしてもその女の前を通るしかなかった。
近づくにつれて、違和感がはっきりしてきた。
その女は、微動だにしていなかった。呼吸の気配も、まばたきの気配もない。ただ、こちらを見ている。目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
すれ違おうとした、そのとき。
「ねえ」
声をかけられた。
思わず足が止まる。
「……私、きれい?」
よく聞く話だった。頭のどこかで警報が鳴っている。関わるな、答えるな、逃げろと。
けれど、体は動かなかった。
喉が乾いて、声が出ない。何とか絞り出すように、「……普通」と答えた。
その瞬間、女はゆっくりと手を顔に当てた。
マスクに触れ、ためらうように指をかける。その動きがやけにゆっくりで、時間が引き延ばされたように感じた。
そして、外した。
そこにあったのは、口だった。
耳のあたりまで裂けた、大きな口。笑っているのか、ただ開いているのか分からない形で、こちらに向けられていた。
「これでも?」
視界が揺れた。
逃げなければと思った瞬間、足がもつれて動かない。心臓の音だけがやけに大きく響く。
次の瞬間、女の姿が消えた。
いや、違う。消えたのではなく、距離が一瞬で詰まったのだと理解するのに、時間がかかった。
目の前にいた。
息がかかるほど近くで、その口がこちらに向けられている。
何か言おうとしたが、声にならない。女の手が伸びてきて、こちらの顔に触れた。
冷たい。
そのまま、何かをなぞるように指が動く。
そこで、意識が途切れた。
――気がつくと、病院のベッドの上だった。
どうやって運ばれたのかは覚えていない。ただ、通行人に倒れているところを見つけられたらしい。
顔に包帯が巻かれていることに気づいたのは、少ししてからだった。
医者や看護師は詳しいことを教えてくれなかった。ただ、「しばらく安静に」とだけ繰り返す。
鏡を見ることは禁止された。
数日後、耐えきれずにトイレの鏡を見た。
そこに映っていたのは、自分だった。
けれど、自分ではなかった。
口元に違和感がある。ゆっくりと包帯を外すと、そこには見覚えのない傷があった。
左右に、引き裂かれたような跡。
笑おうとすると、その傷が引きつる。
そのとき、背後で声がした。
「ねえ」
振り返ると、誰もいない。
「……私、きれい?」
耳元で、確かにそう聞こえた。
それからだ。
人とすれ違うたびに、相手の口元が気になるようになった。ほんの少しでも口角が上がっていると、それが異様に大きく見える。
そして、ときどき、自分でも気づかないうちに、同じ言葉を口にしているらしい。
「ねえ、私、きれい?」
そう言ってしまった相手が、その後どうなったのかは、知らない。
ただ、気がつくと、また夕暮れの道に立っている。
誰かを待つように。
■ 概要
口裂け女とは、夕方から夜の帰り道に現れ、通行人に美醜を問いかけることで知られる怪異である。問いに答えると顔を露わにし、異常な口元を見せる行動をとる。遭遇者は重篤な被害を受けるか、同様の存在へと変化するとされる。 べっこう飴を渡す、あるいは「ポマード」と三度唱えることで回避できたとする噂も存在する。
■ カタリヤの記録
- 登場時期
- 1970年代
- 登場地域
- 日本全国
- 対処法
- 条件付きで回避可能
- 補足
- 特定の返答や行動で回避できたとする報告もあるが、バリエーションが多く、再現性は確認されていない