人面犬
出現: 深夜の人気のない住宅街
被害: 発狂
■ 怪談話
あれを最初に見たのは、仕事帰りの夜だった。
終電を逃し、仕方なく人気のない住宅街を歩いて帰ることにした。街灯はあるが間隔が広く、光と闇がまだらに続いている。遠くで犬の鳴き声が聞こえた気がしたが、妙に途切れ途切れで、どこか不自然だった。
しばらく歩いていると、背後から「タタタッ」と軽い足音が近づいてくる。振り返ると、一匹の犬がいた。中型ほどの大きさで、毛並みはやや乱れている。野良だろうかと思い、目を逸らして歩き続けた。
だが、その犬は距離を保ったまま、ずっとついてくる。
嫌な予感がして、足を速めた。すると、犬も同じように速度を上げる。気味が悪くなり、もう一度振り返った瞬間、心臓が止まりそうになった。
その犬の顔が、人のものに見えたのだ。
錯覚だと思いたかった。街灯の影がそう見せているだけだと。しかし、次の街灯の下に入ったとき、それははっきりと確認できた。
犬の体に、人間の顔。
しかもその顔は、こちらを見て笑っていた。
「見たな」
低く、くぐもった声が聞こえた。
思わず足が止まる。犬――いや、それは確実にこちらを見据え、口を動かしている。
「見たな……見たな……」
同じ言葉を繰り返しながら、ゆっくりと近づいてくる。顔の表情は笑っているのに、目だけが笑っていない。まるで感情の抜け落ちたような、空虚な目だった。
逃げなければと思った瞬間、体が動かなくなった。
視線が外せない。
あの顔から、目が離せない。
気づけば、頭の中に妙な声が響いていた。「見たな」「覚えたな」「知ったな」。言葉とも音ともつかないそれが、繰り返し流れ込んでくる。
やがて、犬はすぐ目の前まで来た。
「……なあ」
顔が、さらに近づく。
「俺を覚えたな?」
その瞬間、全身の力が抜けた。視界が歪み、音が遠のく。何かを強制的に押し込まれるような感覚とともに、意識が崩れていった。
――次に気がついたとき、私は自宅の前に立っていた。
どうやって帰ってきたのか、まったく記憶がない。ただ、頭の奥に妙な違和感が残っていた。まるで、誰かの記憶が紛れ込んでいるような、不快な感覚だった。
それからというもの、私は夜道を歩くのが怖くなった。
時折、あの声が聞こえる。
「見たな」
振り返ると、誰もいない。
しかし、確実に何かが近くにいる気配がする。
ある日、友人にこの話をした。すると、彼は妙に顔を曇らせた。
「それ、目を合わせただろ」
そう言われて、私は何も言えなかった。
「見ちゃダメなんだよ。あれは、見たやつを覚えるから」
彼の話では、同じものを見たという人間が何人かいるらしい。共通しているのは、皆「目を合わせてしまった」こと。そして、その後に不可解な症状を訴えていることだった。
記憶が曖昧になる、同じ言葉が頭の中で繰り返される、夜になると誰かに見られている気がする――。
私はそれを聞いて、ようやく理解した。
あのとき、私は「見られた」のだと。
それ以来、夜道では絶対に後ろを振り返らないようにしている。足音がしても、声が聞こえても、決してだ。
それでも、ときどき思う。
もし、もう一度あれに出会ったら。
今度は、視線を外し続けられるだろうか。
それとも――。
■ 概要
人面犬とは、深夜の人気のない場所に現れ、人間の言葉を発しながら接近してくることで知られる怪異である。目を合わせることで認識され、以後は精神に異常をきたすとされる。人面犬に関わらず視線を避けることで回避できる可能性がある。
■ カタリヤの記録
- 登場時期
- 昭和後期
- 登場地域
- 日本全国
- 対処法
- 条件付きで回避可能
- 補足
- 目を合わせず、関わらなければ被害は避けられるとされる